松ヶ岡プロジェクト
松ヶ岡では、毎月第4土曜日の午前10時から午後3時まで一般公開を行っています。
令和2年度から行われていた松ヶ岡主屋(おもや)の大規模修復が、令和5年6月末で完了しました。
7月以降の一般公開では、離れや二階屋に加え、修復後の主屋も見学いただけます。ぜひお越しください。
松ヶ岡プロジェクトについて
松ヶ岡 長屋門と「行在所」の石碑
皆さんは「松ヶ岡(旧山﨑家住宅)」をご存知ですか。
松ヶ岡は、十王区にある江戸時代末期に建てられた掛川藩の御用商人山﨑家の住宅で、厳選された建築材料と丁寧な加工が施されています。庭園には池(堀)や多くの灯籠、沓脱の鞍馬石のほかに、「松ヶ岡」の名の由来となった多くの赤松が残っています。また、長屋門の右には「明治天皇掛川行在所」という石碑が残っており、明治11年(1878年)明治天皇の北陸東海御巡幸時に行在所(宿泊所)として提供された事を伝えています。このように松ヶ岡は江戸末期の豪商の屋敷構をほぼ原型のままに残しており、明治天皇の行在所という歴史上の出来事のあった場でもあることから、大きな建築史的な意義を持っている建物といえます。
さて、松ヶ岡に住んでいた山﨑家の人々の活躍は多方面に及びました。例えば、8代目 山﨑千三郎は郷土の発展のため「掛川銀行」の設立や大井川疎水計画、東海道鉄道の誘致などに多くの私財を投じ、インフラを整備しました。初代掛川町長にも就任し、掛川市の基礎を作り上げた人物といえます。また、千三郎の甥・覚次郎は東京帝国大学教授として「金融論」「貨幣論」の先駆的な研究をしました。銀行や貨幣の役割や金融の理論を紹介し、日本の金融論の基礎を築いた研究者となりました。また、皇室において国際金融問題を論じたり、日銀の政策に関わったりするなど、多くの人々に影響を与えました。
千三郎は地方で、その社会経済の近代化に貢献し、覚次郎は中央の学界で、日本における「金融論、貨幣論の先駆者」の道を歩みました。松ヶ岡はこれら二人の人物を輩出した家として、後世の人々から顧みられるべき価値をもつ文化財であるといえます。
松ヶ岡プロジェクト推進委員会
平成24年12月、所有者が松ヶ岡を処分するという意向を示しました。しかし、市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、市が購入することになりました。翌年4月には市民による「松ヶ岡保存活用検討委員会」が立ち上がり、松ヶ岡の修復・復元に向けて検討を進め、平成26年度に最終報告書を提出しました。
今後の松ヶ岡を保存活用していくための基本理念とそれに向けて関係者が取り組むべき活動の基本方針を以下のように定めました。
基本理念
「以善堂(いぜんどう)」
善い行いをする人が集まり、善い行いをする人を育てる場
“士”の掛川城、“農”の報徳社、“町人”の松ヶ岡
このキャッチフレーズのもとに
- 市民が集い、協働の力により、文化の拠点をつくる。
- ふるさと掛川の文化財を大切にし、後世に伝える。
- 「松ヶ岡」の歴史や偉人に学び、未来を担う子供を育てる。
そして、この基本理念を実現するため、松ヶ岡の保存活用に係る活動の方針を以下のように定めています。
- 「松ヶ岡」を市民協働により、文化的な拠点として経営を図る。
- 「松ヶ岡」の歴史的建造物や庭園を文化財として後世に残す。
- 「松ヶ岡」に残る歴史的意義を後世に残す。
- 「松ヶ岡」に関わる郷土の偉人を顕彰する。
- 「松ヶ岡」の歴史や人物等を媒介にして人材を育成する。
方針に基づく活動の実施にあたって、修復活用検討委員会は「松ヶ岡プロジェクト推進委員会」に発展、移行しました。
松ヶ岡の修復・復元にご協力をお願いします。
松ヶ岡は、江戸時代後期の良質な屋敷構えを残す主屋や、近代和風建築の格調高い空間を持つ奥座敷棟などの文化財的価値や、明治天皇の行在所(宿泊所)となったなどの歴史的意義が評価され、平成28年2月に掛川市指定文化財になりました。
松ヶ岡は約160年前の建築としては、良好な状態を保っていますが、傷みが進んでいる部分もあります。このままだと、傷んだ部分から崩壊していく恐れがあります。修復は喫緊の課題ですが、文化財建造物の修復には多額の費用が掛かり、市の予算のみでは大変厳しい状況です。
松ヶ岡という素晴らしい財産を後世に残し、伝えていくため、寄附を募っています。皆様のご支援をよろしくお願いいたします。
ご寄附の申込みには下記様式を使用してください。
寄附申出書
PDF(記入例)
Word
寄附者芳名録
寄附者の皆様に感謝の気持ちをこめて、ご芳名を掲載させていただきます。
なお、寄附申出書にて、公表に同意いただけた方のみの公表とさせていただいております。
松ヶ岡の価値
掛川銀行とは
明治5年(1872年)に国立銀行条例が施行され、明治12年(1879年)までに全国に153もの国立銀行が設立されました。県下でも、浜松や静岡などに国立銀行が設立されています。掛川でも官金を取り扱う必要があったことや地域産業を振興するため、銀行が必要とされていましたが、設立の申請に遅れたため、国立銀行の設立に間に合いませんでした。
そこで、山﨑千三郎をはじめとする資産家が私財を投じて、明治13年8月に銀行を設立し、千三郎自らが初代頭取となりました。掛川銀行は、明治前期の私立銀行のなかでも屈指の規模を誇り、資本金は30万円に上りました。これは県内にできた国立銀行の資本金(静岡三十五銀行は7万円、浜松二十八銀行は12万円)をはるかにしのぐもので、全国有数の大銀行でした。
掛川銀行は、地域産業からの資金需要に応じ、掛川茶を世界に広めるため外国為替などの取引を行い、掛川を中心とした地域産業の振興と近代化に大きな役割を果たしました。私財を投じて、銀行を作った山﨑千三郎の地域産業への並々ならぬ熱意が伝わります。