松本亀次郎 その3

2011年11月22日更新

留学生教育に尽力した壮年時代

中国人留学生教育に生涯を捧げる 現場の教師であり続けた亀次郎

日本の近代化を学ぶ中国人留学生

日清戦争の敗戦などにより、西洋化・近代化の必要を強く感じた中国(当時は清)は、西洋文明をうまく取り込んで、急速に近代化を遂げた隣国日本で学ぶことを目的として、多くの留学生を日本に送りました。しかし、当時中国人留学生を受け入れる環境は十分ではなく、柔道の創始者で東京高等師範学校の校長であった嘉納治五郎(かのうじごろう)が、中国人留学生のために設立した宏文(こうぶん)学院でも、優秀な日本語教師を求めていました。佐賀県方言辞典の仕事で実力を認められた亀次郎は、その招きに応じ留学生教育に関わっていく決心をしました。明治36年(1903年)6月、亀次郎37歳の時のことでした。

北京大学教授としての4年間

小学校訓導・校長から師範学校教授になり、順調に教師の道を歩んでいた亀次郎は、どうして中国人留学生教育の道へ転身したのでしょうか。幼いころから漢学に親しみ、自然と中国に対して親しみが芽生えていたと亀次郎は後に述べています。加えて、亀次郎の優れた国語教師の力、教育者としての情熱が、この転身を導いたのではないでしょうか。
その後、北京の京師大学堂(けいしだいがくどう)(北京大学)に日本語教授として招かれ、妻ひさとともに北京に渡ります。そこで辛亥(しんがい)革命にそう遇しますが、翌年には任期を終え帰国しています。帰国後、日本人向けの教師となりますが、やはり中国人留学生教育に情熱は移っていたようで、1年半ほどで職を辞すと、私財を投じ、「日華同人共立東亜高等予備学校(にっかどうじんきょうりつとうあこうとうよびがっこう)」を神田区中猿楽町に創立しました。

19歳の周恩来も学ぶ東亜高等予備学校

亀次郎の教え子には多くの中国の偉人がいます。宏文学院での教え子には後に文豪となる魯迅がいました。魯迅はすでに日本語を習得しており、「魯訳(ろやく)」と呼ばれた訳は、言葉の裏の奥深い部分の意味にまでこだわったもので、それには亀次郎も舌を巻いたようです。
また、東亜高等予備学校時代の教え子には、後に中国の総理となった周恩来がいました。亀次郎は修学旅行で留学生と京都・奈良へ行ったのですが、周恩来は後にその思い出をよく人に語ったそうです。この修学旅行には、多くの中国人が日本語を学び、日本の文化を理解することで日中の友好親善が進んで欲しいとの亀次郎の想いも込められていました。
大正12年(1923年)、東亜高等予備学校は関東大震災で焼失しましたが、亀次郎はくじけず、留学生を救済しながらも40日後には仮校舎での授業を再開しています。その後学校の経営者が変わり、校長から教頭になりますが、不平一つ言わず教壇に立ち続け、65歳からは名誉教頭となり授業の忙しいときのみ教壇に立っていました。故郷の土方村に帰るまで、実に40年の長きにわたり、中国人留学生の教育に関わっていたのです。

亀次郎編集の日本語教科書
亀次郎編集の日本語教科書

日本留学生当時の周恩来氏の肖像
日本留学生当時の周恩来

日華同人共立東亜高等予備学校
亀次郎が私財を投じて創立した日華同人共立東亜高等予備学校

松本亀次郎 活動の時代

1904年(明治37年)日露戦争
1908年(明治41年) 北京の京師大学堂教授
1911年(明治44年)辛亥革命(中華民国成立)
生糸の生産世界一位になる。
1914年(48歳)東亜高等予備学校創立
第一次世界大戦始まる。
1917年(大正6年)周恩来入学
1923年(大正12年)関東大震災

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