遠江古蹟図絵に次のように記している。佐野郡掛川の城は雲霧城と言う。此城は朝比奈備中守殿天正年中縄張り也、城の北東の方に当て牛馬天王の社有り則ち天王山と言う。竜尾山とも言う.掛川の城を竜頭城と言う。竜の頭尾に喩るなり。此の城は日本六ヶ所名城の其の一つの名城と言伝う。所謂大坂の城、播州姫路城、肥後熊本城、本城掛川の城、尾州名古屋城、江戸城なり、掛川城を雲霧城と号する事は城の許に三ヶ月堀という堀ありて、其の堀より霧出でて城を覆い隠す。故になづけ兵乱の節に至りて斯の如く、往古天正年中、神君掛川城を崩さん為め南方小笠山の絶頂より震天雷(いしびや)をしかけ城を打ち潰さんんと遊ばされ候時、右の霧城を覆い隠し方角も知れずして崩す事あたはず。故に雲霧城と書く事、記録に見ゆ。(掛川市誌より)
第45代聖武天皇の天平年中(西暦729~748年)のことである。小夜の中山の東の坂を下ると、菊川の里という所があり、その里(菊水の滝)に仙人が住んでいた。その仙人が常に信仰している不動明王の誓願によって、鐘を供えることを考え、小さなつりがねを作り、粟ヶ岳の頂上の古い松の枝にかけた。 この鐘を一度つくと、災難をまぬがれ、二度つくと病難を除き、三度つくと家が栄え、四度つくと運が開けて出世をし、五度つくと、子孫までも栄え、六度つくと武運長久となり七度つく者は末永く長者になれるという噂がひろまった。 この噂をきいて、鐘をつこうとして登山する者が多くなった。しかし、当時は道も小さく、しっかりできていないので、足をすべらして谷底に落ち、怪我をしたり、死ぬ者が多くでた。そのため、誰れ言うとなく「地獄へ落ちる鐘」とおそれられた。 小鮒川のほとりに、ひとりの長者がいた。この人は強悪無道な人なので、人々は、荒石長者と呼んでいた。この長者も、世の常の人のように、人にすすめられ、末長く長者になれると信じ、慾にさそわれて鐘をつきに出かけた。どうやら粟ヶ岳の頂上にのぼり、松の枝に釣ってある鐘を張り合い込んでついた。ところがどうしたところであろう、鐘をつくと同時にそのまま地獄の底に落ちていった。
三度の食事は、みんな蛭となってしまって、食べることができず、大変な苦しみにあって、あわれな最期をとげたということである。
それから「女房の朝寝と無間の鐘は、朝のごはんが蛭(昼)になる」という歌が歌われ、今も伝わっている。 このように、罪多い人たちが鐘をついたので不幸を招いたのであるが、この鐘があるために世人をまどわし、更に罪を作り出しているということは発願者の意図に反することである。そこで、天禄二年(西暦972年)住僧は、この鐘をはずして頂上の井戸(約百米)の底に埋めてしまった。この井戸を無間の井戸という。(「史跡と伝説」掛川市商工観光課)より)
市内日坂にあり、昔、ひとりの臨月に近い女が、遠い武蔵の国に住んでいる夫を尋ねて行く途中、小夜の中山を越えた。長い旅につかれていたのでひと休みしていると、突然一人の悪者が草の中からあらわれ、とびかかって来た。女は極力抵抗したが、悪者は山刀でその女を殺してしまった。
しばらくして、里人が通りかかり、死体のそばに赤ん坊が泣いているのを見つけ、あわれに思って拾い上げ、音八と名づけて育てた。しかし、殺された女の霊が石にのりうつり、毎晩悲鳴をあげた。里人はおそれ、誰れ言うとはなくその石を「夜泣石」と言った。後に、弘法大師がまわってこられ、この話を聞いてこの女に大変同情し、石に仏号をきざみ、お経をあげてくれた。その後、石の悲鳴はなくなったという。
音八は、その後、立派な若者となり、大和に行き刀研師をしていると母を殺した轟業右衛門にめぐりあい、母の恨みをはらしたということである。((「史跡と伝説」掛川市商工観光課)より)
忠尚は元禄2年(西暦1689年)13代城主西尾忠成の4男として生まれ、正徳3年(西暦1713年)横須賀二万五千石を継承しました。
江戸時代の中期頃に書かれた「横須賀根元歴代明鑑」によると忠尚は城内で相撲を催したり、江戸から花火師を呼んで城下で花火を催したりと領民の文化スポーツの振興に努め、また、板葺きに葺きかえたりと、いろいろな事業をおこないました。特に相撲については大関の鉄槌錐右ヱ門、関脇の離山峯右衛門、小結荒熊洞右衛門などの力士を抱え、また、家臣、領民の内からも相撲好きの者を集め、城内の書院前に作った土俵で毎月8のつく日に相撲を取らせました。三熊野神社の境内で行われた駿河田中藩(藤枝市)主のお抱え力士との対戦には大勢の見物人がくりだしました。城内の相撲は他領の者まで城内に入れて見物させました。この田舎でこの様な相撲が見られるのは誠に殿様のおかげで、この時に生まれたのは幸せだと「横須賀根元歴代明鑑」の筆者は感激しています。(広報おおすか平成10年5月号より)
慶長年間の頃、高天神城跡(すでに落城していた)の古井戸の付近から怪物が出没し、人々を悩ましていた。小笠原右京進義頓がこの怪物を射止めたところ、真白な老狐であった。これを駿府の家康に献じ、小笠原の姓を尾白と改姓され、家紋をいただいた。(「だいとう小事典」(大東町商工観光課)より)