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八木美穂(やぎよしほ) その1

2011年11月28日更新

幕末の国学者、門弟数百人 日本独自の古典文化を郷土に広め、人を育てた

幕末の歌人・国学者 八木美穂の似顔絵
幕末の歌人・国学者 八木美穂

国学は江戸時代中期に生じた学問です。それまでの儒教、仏教を中心とした学問に対し、「古事記」や「万葉集」などの古典資料の研究を通じて、日本独自の文化や精神を究めようとする学問です。その大系をまとめ中心となったのが、賀茂真淵(かものまぶち)(浜松市)です。後に国学を大成した本居宣長(もとおりのりなが)(三重県松坂市)は、真淵高弟の一人で、遠江には内山真龍(うちやままたつ)(浜松市)や栗田土満(くりたひじまろ)(菊川市)などの弟子がいました。そしてその流れを受け継いだ市内の国学者として、石川依平(いしかわよりひら)(伊達方)と八木美穂(浜野)がいます。特に八木美穂は、人材と郷土文化の育成に大きな業績を残しました。本文を入力してください。

 

「塩汲(しおく)みの道の名聞けば岡人(おかびと)の出でて汲みけむ古思(いにしえおも)ほゆ」という歌があります。
その詞書(ことばがき)に「右塩汲道は、浜野村にある。言い伝えによれば、昔、土方・佐束などの村人は、塩を買わず、海水を汲んで食事に使った。当時おけを担いで海岸に行く者は皆この道を塩汲道という」とあります。
美穂の詠んだ一首には、この地方の古人の生活を偲(しの)んだ心があふれています。

浜松市賀茂真淵記念館に所蔵されている美穂から石川依平にあてた手紙の画像
浜松市賀茂真淵記念館に所蔵されている美穂から石川依平にあてた手紙

本文中に「横須賀の家」のことが出ているので、晩年に近いころに書かれたものと思われます。手紙の中で、依平にいろいろ教わりたいことがあり、家まで来てほしいと述べており、本文中の表現もくだけた感じで、美穂と依平の親密さが伺える資料です。

神童のような少年時代

八木美穂は、寛政13年(1800年)掛川市浜野に、八木美庸(よしとこ)の長男として生まれました。幼いころの名は金松、次いで林助といい、家をついでからは金兵衛とも名乗っています。父美庸は、浜野村の庄屋であり、教育熱心な人で、美穂は5歳のときに「考経(こうきょう)」を父から授けられ読んでいました。また、6歳ごろからは俳句短歌を作りました。あるとき、京都の文人が江戸に向かう途中八木家に泊まったことがありました。その夜、客と父との俳句の話をそばで聞いていた美穂が、その句のおかしな点に気づき父に聞いたところ、その指摘が正しかったのでしょうか、その文人は江戸行きを取りやめたと言う逸話が残っています。この話から、幼い美穂が高い教養を身につけていたことがわかります。
10歳ごろには、平尾村(菊川市)の高名な国学者栗田土満から本を借り勉強したともいわれています。土満は賀茂真淵の門人で、本居宣長とは頻繁に手紙をやりとりする親密な間柄でした。このときの美穂はまだ幼く、土満の正式な門人ではありませんでしたが、後に国学者になるための土台が作られていたと思われます。11歳ごろには儒学の書物である「四書五経(ししょごきょう)」を読み学び、国の内外を問わず学問を学びました。12歳のとき、磐田の鈴木伊左衛門に預けられ商家で働きました。これは、後に父の跡を継ぐために必要な修行として出されたと思われます。4年ほどで伊左衛門が亡くなると、その翌年に家に戻り父の仕事を助け、農業にも従事しました。仕事の手が空くと、貞永寺(ていえいじ)(大坂)に来た大粛(だいしゅく)和尚に漢籍仏書を学び、門屋村(御前崎市)に住んでいた国学者中山吉埴(よしはに)からは日本の古典を借り学びました。美穂は、18歳のときには国学を志したといわれます。若いうちから学問に励み、まさに国学者としての土台づくりの時期でした。

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