岡田良一郎 その3

2011年11月24日更新

掛川信用組合(掛川信用金庫)設立

岡田良一郎は、報徳社を大いに発展させる一方、明治7年(1874)、事業育成や農業、工業などの産業奨励のために、半官半民の「資産金貸附所」を創設し、岡田家家訓「雲仍遺範(うんじょういはん)(注1)」による岡田家推譲(すいじょう)(注2)の報徳金や他の推譲金を資産金にして貸し付けを始めました。明治12年(1879)、佐野城東郡(小笠郡)の郡長に命じられたのを機に、産業発達を推進するため、資産金貸附所の実力を倍加することを目的にして、別に勧業資金積立の組合を作り事業をはじめました。これが掛川信用金庫の創始です。明治25年(1892)、掛川信用組合(掛川信用金庫の前身)に組織替えして事業を続け、昭和27年(1952)掛川信用金庫となりました。良一郎は初代の組合長となり活躍しました。

(注1) 雲仍遺範(うんじょういはん)・・・雲仍とは子孫のことで、遺範は子孫に残す家訓のこと。
(注2) 推譲(すいじょう)・・・分度のある生活をして、余財を蓄え、家族、子孫、社会のために譲る。

勧業資金加入規則及貸附法
勧業資金加入規則及貸附法(明治12年)

掛川信用組合事務所の古い写真
本社構内にあった掛川信用組合事務所

 

大日本報徳社設立

良一郎は、二宮尊徳が唱えた報徳思想の普及をめざし、道徳と経済の調和ある実践を説き、困窮にあえぐ農民の救済をめざした報徳運動を全国に広めていきました。尊徳高弟の良一郎の力強い指導による活動が盛んであった掛川は、やがて全国の報徳運動の中心地となり、この地に「大日本報徳社」が設立されたのです。
明治36年(1903)、良一郎は、現在ある大講堂を総工費1万1629円で建設し、全国の報徳社の中心拠点としました。そして、明治42年(1909)、道徳、経済一円融合論(「道徳のない経済は罪悪、経済のない道徳は寝言」)の象徴として、正門(道徳門、経済門)を建設し、明治44年(1911)、社名を遠江国報徳社から「大日本報徳社」と改名しました。

正門(道徳門、経済門)の写真
道徳、経済一円融合論を象徴して建てられた正門(道徳門、経済門)
(明治42年建立、県指定文化財)

農民に不利な税負担を改正

明治7年(1874)、税負担を農民に強要する地租改正に対して、全遠州にも猛烈な反対運動が起こりました。静岡県からの収拾の依頼を受けた良一郎は、坪刈成績に基づく制度にさせようとしましたが、政府が遵守しなかったので、丸尾文六、金原明善らと図って運動を起こし、明治21年(1888)、一坪の稲を刈り取り、それを基礎として全体の収穫量を算出する坪刈成績に基づいた地租改正を実現させました。

1853(嘉永6年)

岡田家報徳金を掛川藩へ上納

1874(明治7年)

先の報徳金を基に、資産金貸附所設立

1879(明治12年)

勧業資金積立の組合設立(掛川信用金庫の創始)

1889(明治22年)

東海道掛川駅開設

1892(明治25年)

掛川信用組合に組織替え

1903(明治36年)

大日本報徳社大講堂建設

編集/大日本報徳社専務理事 宮川正夫 電話:0537-22-3016

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