佐野・城東郡長、県議会議員、衆議院議員としての良一郎
明治9年(1876)、岡田良一郎は静岡県議会議員となり、議長となります。また、明治23年(1890)には衆議院議員に初当選。議員として、不偏不党、県民、国民の立場に立って、県政に力を注ぎ、多くの実績をあげました。
その間、遠州出身で治山治水に生涯をかけた、社会事業家の金原明善(きんぱらめいぜん)などとも共同歩調を取って事にあたり、明治12年(1879)、佐野・城東郡(小笠郡)長に命じられましたが、尊徳の村を回って直接指導する回村方式を実行し、現場主義を貫き通しました。教育を大事にする良一郎は回村の際、各地の小学校を訪れ、教師育成の重要性を感じ、師範学校の重要性を認識したと言われています。ちなみに教育者の一面を持つ良一郎は、明治13年(1880)、掛川町に開校した県立掛川中学校(注)の初代校長になっています。
注 掛川中学校は、その後、公立化や統合が行われ一時中断します。現在の掛川西高校の前身である掛川中学は、明治34年4月を開校としています。
明治34年ごろの掛川中学(現在の掛川西高校)
戦勝観世音菩薩像(後の平和観音像)設立
国内が日露戦争勝利に沸き立っていた中、良一郎は、遠州一円の戦死者1059人の忠魂をまつり、その冥福を祈るための「戦勝観世音菩薩像」の設立を提唱しました。
それに応じた掛川報徳婦人積善会の呼びかけで、遠州一円から基金が集まり、明治40年(1907)、掛川城の天守台に像が完成しました。この像は、太平洋戦争終了を機に、「平和観音像」と改名され、平成元年4月、掛川城天守閣復元の際、市内久保の富士見台霊園に遷座されました。東京美術学校(現在の東京芸術大学)の竹内久一(たけのうちひさかず)教授が模型を作成し、東京都深川の鈴木鉄工所が鋳造した名作です。
日露戦争で戦没した将兵をまつり建立した平和観音像
淡山翁記念報徳図書館
良一郎(淡山翁 注)は、大正4年(1915)1月1日倉真村の自宅で、77歳の生涯を閉じました。葬儀には、5000人余の会葬者があったといわれています。昭和2年(1927)、13回忌を迎えることを機に、淡山翁の多大な功績を記念して、「淡山翁記念報徳図書館」を建設する事になり、2万2千220円の工事費で、馬場組(馬場喜三郎)が工事を請負い、昭和2年に、耐震耐火構造の鉄筋コンクリート2階建で完成しました。「大講堂」「正門(道徳門、経済門)」「岡田良一郎肖像」と共に、静岡県指定有形文化財となっています。
注 淡山翁・・・岡田良一郎の晩年の名前
昭和2年鉄筋コンクリートで作られた報徳図書館
1876(明治9年)
中町大火(約130戸焼失)
1880(明治13年)
県立掛川中学校設立 君が代作曲、初演奏(宮内省)
1889(明治22年)
東海道掛川駅開通
1907(明治40年)
天守台に戦勝観世音菩薩像設立
1928(昭和2年)
淡山翁記念報徳図書館建設
編集/大日本報徳社専務理事 宮川正夫 電話:0537-22-3016