河井弥八(かわいやはち)

2017年10月18日更新

河合弥八氏の顔写真
河合弥八 氏

国土の安全と食糧増産に力を注いだ

河井弥八は、1877年(明治10年)、河井重蔵(衆議院議員)の長男として、現在の掛川市上張に生まれました。
現在の東京大学法学部を卒業した後、政府の役人となり、1927年(昭和2年)から1936年(昭和11年)まで宮内省で侍従次長兼皇后宮大夫を務めました。そして、1938年(昭和13年)弥八が貴族院議員の時、中央林業協力会副会長、大日本報徳社副社長になりました。
このころ弥八は、「国力をつけるためには、農林業を盛んにしなければならない。」と考えていました。とりわけ、農業においては、食糧不足の時代であったこともあって、「まっ先にやるべき仕事は、食糧増産である。」と考えたのです。
そこで、政府や地方の政治家に、「サツマイモを増産すべきだ。」と意見を述べたり、会社を経営する人々に協力を呼びかけたりしました。そのころ、大日本報徳社では、丸山方作の指導で、米・サツマイモの増産運動を進めていたこともあり、報徳社が中心となってこの運動を全国各地に広げようとしました。
また、林業においては、金次郎の教えを実践に移すため、寒い時も暑い時も、弥八は地下足袋に脚絆姿で、人が入ったこともない山おくや険しい谷にも入り、歩いて山の状態を調査しました。そして、国土を災害から守る方法を考え、いろいろな所で、木を植えたり、山くずれや洪水を防ぐ工事を行ったりしました。
小笠山での砂防工事も弥八の指導のもとで行われたもので、地元の人たちからは、「山くずれや洪水の害を防ぐことができた。」と感謝されたということです。
弥八は、戦後の日本を立て直す源を報徳精神の普及と考え、食糧増産と治山治水にいっそう力を入れました。
1953年(昭和28年)、参議院議長となり、どんな時でも公正でユーモアのある名議長と呼ばれました。
1956年(昭和31年)には、第五代大日本報徳社社長にもなり、報徳思想をいっそう進めました。
河井弥八は功績が認められ、勲一等旭日桐花大勲章があたえられました。
一日一日を大切に生活したことから、年齢を日数で数えた弥八は、『日齢30,222日』(82才)を力いっぱい生ききりました。

河井弥八が参議院議長のころ掛川西高講堂にて行われた歓迎会の様子
河井弥八(左から4人目)が参議院議長のころ行われた
歓迎会の様子(掛川西高講堂にて)

筆で書かれた河井弥八の書
河井弥八の書

出典『この人に学びたい-掛川の偉人ものがたり-』

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