名倉五郎助(なぐらごろすけ) その4

2011年11月24日更新

通水の喜びがひびく

着工以後、五郎助と共に苦楽を分かちあい、工事に関わってきた柳原十内は、村人を励ますように言いました。
「庄屋名倉五郎助の計画には、いささかも手落ちはない。埋樋(うめとい)を修復することによって、この工事は完成する。わしは庄屋の志をついできっと仕上げる」
奉行柳原十内の熱い心は村人によく伝わり、泥土との戦いが、翌日から再び始まりました。切り石の埋樋が70メートル組まれ、その継ぎ目は、たたきでしっかり固定されました。
こうして工事は進み、翌年の正保3年(1646年)になって、通水の日を迎えました。五郎助の計画通り、坊主渕川の両岸に土のうが高く積み上げられ、十内の指示で川水がせき止められると、水位がみるみる上がりました。そして、幅2メートルの新しい水路へ、水が勢いよく流れこみ、やがて埋樋へと吸い込まれていきました。
見守る人たちから、わっと歓声が上がり、西大谷川の西側に集まった村人や子どもたちからも、「きた、きた。水がきたぞ」という喜びの声が上がりました。

300余年の恵み

川底の下を通る埋樋の水は、それから300余年の間、100ヘクタールにも及ぶ田や畑をうるおし、計り知れない恵みを、村人に与えてきました。このいきさつを知る人たちは、庄屋五郎助の気高い人となり、強い愛郷心をたたえて、昭和30年、堤防上に「顕彰碑」を建て、新たな感謝をささげています。また村の中央、辻の地蔵堂にもおまつりし、今も線香の煙が絶えません。
浅羽とうもん(稲面=とうおも→とうもん)を目標にした五郎助は、西大渕とうもんを見事な治水工事で完成させました。このことは、「浅羽風土記」に、その背景が記載されています。しかし、その功績は城主本多利長、奉行柳原十内が前面に出て、庄屋名倉五郎助は、どちらかといえば陰の存在として扱われてきました。
昭和25年、当時の横須賀農民組合によって、十内、五郎助二人の供養祭が執り行われ、その際、「十内圦の伝記」がまとめられました。昭和48年、その役目を終えた十内圦は、市(旧大須賀町)の文化財に指定され、平成14年に埋蔵保存となり、近くには十内公園が作られました。平成12年、五郎助を主人公としたミュージカル「風紋(ふうもん)」が市民の手によって上演されました。また、平成19年にはミュージカル「十内圦物語」がとうもんの里と十内公園で発表され、関心が集まるようになりました。

ミュージカル「風紋」が舞台の上で演じる様子

水と人の和の大切さを題材に大須賀中央公民館で上演されたミュージカル「風紋」

広々と水田が続いている写真
300余年にわたり、豊かな実りをもたらした
西大渕とうもん

十内記念公園にかけられた案内板
十内圦近くに作られた記念公園

 

(注1)とうもん(稲面) 良いお米がとれる水田の広がり
(注2)浅羽とうもん 十内圦よりも前に行われた開発による浅羽の水田地帯

文責 鈴木誠作(掛川市西大渕)

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