吉岡彌生(よしおかやよい) その1

2011年11月25日更新

吉岡彌生の画像
吉岡彌生

「婦人が職業を持ち、社会で活動できれば」、と女性医師育成に生涯を捧げた

今から138年前、現代のように女性が自由に生き方を選ぶことが困難だった時代、自分の思いを貫き掛川の地を旅立った女性がいました。明治4年(1871年)、鷲山彌生(のちの吉岡彌生)は、高天神のふもと、上土方嶺向(みねむかい)に医師鷲山養齋(ようさい)とみせの二女として生まれます。鷲山家は、代々造り酒屋をしていましたが、彌生の祖父三郎助が分家し、そこに婿にきた彌生の父の代から医業を営むようになりました。

 

お転婆(てんば)で勉強好きな女の子

彌生は、父親から好奇心旺盛さを、母親からは健康な体を受け継いだ子どもだったそうです。教育よりも家の手伝いが優先されていた時代、小学校に通う数少ない女子の1人でした。幼いころから勉強が大好きで、城東郡の小学生代表に選ばれて試験を受けたところ、優秀な成績だったため、県庁からご褒美をもらったこともありました。その一方で、女の子をいじめるいたずら者の男の子をこらしめたり、父親に隠れて家の裏の小川で裸になって泳いだり、正義感が強く活発な一面もありました。

吉岡彌生の生家である鷲山医院の当時のようす
当時の鷲山医院(吉岡彌生の生家)

医師になりたい

小学校を卒業した彌生は、将来何か人のために役立つことをしたいと考えます。家事をして一生を終えるのではなく、「女性であっても自立して社会で活躍できるはずだ」、そんな思いを強くしていました。医者の家に育ったことや、医師を目指して東京の学校に通う兄の存在も大きかったのでしょう。また、このころ世間では、荻野吟子が女医第一号として誕生していました。彌生は医師を志します。
しかし、女性は結婚し子どもを育て、家を守ることが当たり前の時代、父は猛反対でした。彌生はそれにめげることなく、2年間、医学校へ入学するための準備を独学で進めます。そして明治22年(1889年)、ようやく父の許しを得て、兄の通う医学校「済生学舎」の入学がかないました。こうして彌生は故郷を離れ、希望を胸に医師への一歩を踏み出します。

彌生が通っていた嶺向学校のようす
彌生が通っていた小学校。長寿庵(嶺向学校)

明治4年(1871年)

誕生

明治9年(1876年)

嶺向学校(後の土方小学校)入学

明治17年(1884年)

小学校卒業

明治22年(1889年)

上京済生学舎入学

編集 吉岡彌生記念館、写真 東京女子医科大学所蔵

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