山崎千三郎(やまざきせんざぶろう) その1

2011年11月25日更新

明治初期、掛川の鉄道、交通路、大井川疎水、産業殖産に身命をかけた

山崎千三郎が正面を向いている
鉄道誘致運動を展開した山崎千三郎

江戸時代、掛川の御三家の一つと言われた市内西町の山崎家は、掛川藩の御用達も勤め、藩より士分の待遇を受けていました。浜松、横須賀、相良各藩の金子(きんす)御用達(注1)も勤め、遠江国(とおとうみのくに)では有数の富豪でした。
山崎千三郎は安政3年(1856)、山崎万右衛門(まんえもん)の次男として生まれ、明治3年(1870)山崎家の家督を相続し、この豊かな財力を掛川地方の行政・産業の各方面に惜しみなく活用しました。

 

注1 金子御用達・・・資金を用立てる

掛川に東海道鉄道を誘致

明治維新後、西洋文化に大きく遅れをとっていると認識した明治政府は、産業の近代化のために、鉄道施設の必要性を強く意識し、明治5年(1872)新橋-横浜間に鉄道が敷かれたのを手始めに、明治16年(1883)日本の大動脈東京と大阪を結ぶ鉄道の施設を決めました。軍部の「東海道は戦争が起これば艦砲射撃で攻撃されやすい」という主張から、中山道案に決まりました。
しかし、明治17年(1884)帝国議会開催に間に合わせるために、静岡県議会は、地理的に有利な東海道筋路線への誘致運動を起こしました。中山道案は、山岳で建設費も多額になることから、明治19年(1886)7月閣令によって東海道案が採択されました。
この時点では、焼津から相良-横須賀-浜松に至る海岸路線には山もなく、建設費も安くて済むという理由から、施設することが有力でした。
この時、山崎千三郎は断固として、日本の近代的産業育成面から東海道宿駅筋にすべきと、早速静岡県知事関口隆吉に「東海道鉄道線路之儀ニ付上申」書を提出しました。これには、藤枝宿を始め島田、見付間の各宿駅130か村744人の戸長(注2)を含めた有力な賛同者の署名が集められていました。
上申書は、

  1. 海岸線は乗客も少なく産業の集散設備もないこと
  2. 宿駅筋は日本の交通の大動脈で、各宿駅は産物の集散地で産業輸送の要であること
  3. 宿駅は人口の密集地で乗客数は多く、運賃収入はばく大であること
  4. 宿駅筋は行政の中心地で、教育文化など公共施設が整った重要拠点であること

を強調しました。
かくして山崎などの尽力により、島田、金谷、掛川、袋井の宿駅ルートが採択され、明治22年(1889)4月16日、東海道鉄道開通式が行われました。掛川駅は、掛川宿より南の田園地区に造られたため、連雀・仲町と駅を結ぶ新しい道路も造られました。開業の日には、町は緑門のアーチを作り花火を打ち上げ、丘蒸気(汽車)を一目見ようと集まった、数万の人々でにぎわいました。

注2 戸長・・・現在の市町村長

東海道鉄道が開通した当時の掛川駅と掛川町

北池、掛川城跡、掛川駅、東海道鉄道、東海道、北池、逆川、上張などが入った地形図
出典:大日本帝国陸地測量部2万分の1地形図「掛川町」(明治22年測量)

中央に線路があり、蒸気機関車が煙をあげて走ってくる様子
単線で開通した掛川駅(明治22年)

大きな煙突のある蒸気機関車の全体
開通当時の蒸気機関車

 

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