今川家が遠江を支配、戦国大名へ(1497)

2017年10月6日更新

1400年代の遠江(とおとうみ・現在の掛川市を含む地域)は、室町幕府の将軍足利氏の一族で有力な守護大名の斯波(しば)家の支配下にあった。しかし、応仁の乱以降、守護大名の影響力が低下すると、遠江では地方武士が力をつけそれぞれが領国を独自に支配するようになり(国人領主)、斯波家の力は徐々に低下していく。

今川氏親と北条早雲が遠江に攻め込む土地の地図
1497年、今川氏親が北条早雲と
同盟を結び、遠江に攻め込む。

1476年、斯波家と対立関係にあった駿河の守護大名今川義忠は、遠江を攻略すべく重臣の朝比奈氏に掛川古城を造らせ、後に遠江に侵攻し勝利を得る。しかしその直後、義忠は駿河に凱旋して帰る途中、敗軍の残党に討たれてしまう。今川家の内紛もあり、今川家の遠江攻略は一時頓挫する。
1497年、義忠の子今川氏親は、父義忠の志を受け継ぎ再び遠江を攻略すべく、伯父の北条早雲と同盟を結び遠江に攻め込む。今川・北条軍は遠江の国人領主を次々と破り、ついに数十年来の宿願であった遠江の支配を成し遂げる。以後、今川家による遠江の支配が約70年続く。
今川家は氏親、及びその子義元の時代に次々と勢力を拡大し、1554年には駿河、遠江、三河の三国を支配する戦国大名となる。
1560年、いよいよ天下を狙う今川義元は京へ攻め上がるが、その途中桶狭間の戦いで尾張の織田信長に討たれてしまう。今川家は義元の子、氏真が跡を継ぐが、これを境に今川家は急速に弱体化していった。

 

今川義元が、駿河・遠江・三河を支配し尾張攻略を図った周辺地図

駿河・遠江・三河を支配し、武田・北条と甲相駿三国同盟を結んだ今川義元は、信長の尾張攻略を図るが、桶狭間の戦いで信長に討たれる。

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