武田勝頼、高天神城を落城(1574)

2017年10月6日更新

高天神城の想像図のイラスト
高天神城当時の想像図

周りが崖で幅が狭い道が続く地形
信玄をも退けた高天神城
の厳しい地形

遠江・駿河の今川氏追放に端を発した徳川と武田の抗争は、その後家康が越後の上杉謙信と同盟関係を結び甲斐の武田信玄を挟む形に至り、信玄を大いに刺激した。
1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。しかしながら、天嶮の要害に築かれた堅城であった高天神を落とすことはできず、信玄は早々に兵を引く。
その後、信玄は三方ヶ原の戦いで徳川軍を粉砕するなど勢力を拡大するものの、1573年に志半ばで病死する。武田家は信玄の子、勝頼が後を継ぐ。

 

霊命をつないだ井戸をお祀りしている様子
かな井戸
高天神城は飲料水に乏しかったため、
ここに深井戸を掘って霊命をつないだ。

信玄は「3年間自分の死を秘せ」という遺言を残したとされるが、勝頼はこれを破り、1574年2万の大軍を率いて再び高天神城に侵攻する。勝頼としては、名将と謳われた父信玄でも落とせなかった高天神城を落とすことで、その武名を全国に轟かせたかったに違いない。城主小笠原長忠は家康に援軍を要請するが、家康は単独での行軍は無理と判断し、同盟国の織田信長に援軍を請う。しかし信長は動かず、1カ月後長忠は武田軍に城を明け渡し、武田側に降りた。

 

山を切り崩して作った石窟の様子
大河内政局幽閉の石窟
1574年の武田勝頼による高天神城落城の際、
勝頼の命に服さなかった軍艦・大河内源三郎
政局が幽閉された石窟。1581年徳川家康が
高天神城を奪還するまで7年近くを牢内で
過ごした。

念願の高天神城を手に入れ得意の絶頂にあった勝頼であったが、一方で就任以来信玄時代からの老臣の忠言を軽んじていたため、家中で軋轢が生じていたともいわれる。信玄に取り立てられた武田四名臣の一人高坂昌信は、高天神落城の宴の際に「これは主家滅亡の盃である」とこぼしたと言う。
こうした武田家の不和の中、勝頼は翌年長篠の戦いに臨み、織田・徳川連合軍に大敗を喫する。そして以降、武田家は転がり落ちるように滅亡への道をたどっていく。

 

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