名倉五郎助(なぐらごろすけ) その2

2011年11月24日更新

川の下を横切って水を流せないか

坊主渕(ぼうずぶち)川は、川幅はせまいが、上流に湧水があり、いつも澄んだ水が満々と流れていました。
「この水さえ、西側へ引ければ・・・」
五郎助の胸に、明るい希望が生まれました。しかし、はたしてそれが可能かどうかを考えると、困ってしまいました。西大谷川の川底を起点にして、東西の土地の高低がつかめないからです。
そこで、五郎助は、まず土地の高低を確かめようと、測量(和算)に関する書物を一心に読みました。周辺の高い木に登って観察も始めました。
「庄屋様が、きょうも凧(たこ)を揚げていなさる」「大きな凧だな」「おらも揚げたいな」子どもたちが近寄り、大きな声をあげているのも気にしないで、五郎助は、凧揚げに熱中していました。これらの作業は現地の土地の高低を知るためであり、いく日も続けたと伝えられています。
こうしているうちに、西大谷川の東側と西側を比較して、土地の高低差が、あまりないことがわかってきました。坊主渕川の水位を30センチも上げれば、西側へ送水することが可能であるという見通しがついてきたのです。
次の難題は、川底の高い西大谷川の下を、どのようにして水をくぐらせるかということでした。土木工事(暗(あん)きょ工事)技術が進んでいなかった当時、一番困った問題だったと思われます。
研究熱心な五郎助は、自ら、川底へ鍬(くわ)を入れて調べているうちに、川底にある砂利の下を3メートル程度掘ると、固い地盤のあることがわかりました。しかも、地盤は、西側の地面の高さと同じであることもわかり、ここに埋樋(うめとい)を作れば、計画通り進められるという見通しがたってきました。五郎助の埋樋工事への意欲がさらに盛り上がってきました。

二つの凧の距離と、凧に垂直に尾を付けて高さを図り、それぞれの凧に付いているヒモを交互の尾の下に付け、角度を測っている画像
凧を利用し和算で高さを計測

相良まで出向いて石灰を求める

そこで、早速、城主(井上正利 第11代1628年から1645年)に、「埋樋設置」計画とともに、工事の願い出をしました。ところが、城主や城役人たちには「到底できる工事ではない」ということで許してもらえませんでした。
井上正利は、城下武家屋敷(侍町)を番町地内に造ったり、職人などの町を城下東部(河原町)に計画させたり、農業以外のことには、かなりの政治力を発揮した城主でした。
五郎助は、計画した「埋樋」作りの望みを決して捨てませんでした。どんな苦心をしても望みを貫き通そうと、毎日毎日、蔵の中に一人とじこもって、切り石の「埋樋」をする模型作りを試みました。さらに、切り石のつぎ目は、水もれを防ぎ強度を増すために、たたき(注)で固める研究にも取り組みました。現在でこそ近く感じますが、当時は交通の便が悪かった相良まで出向いて、良質の石灰を求めて来ることは、とても大変なことでした。
五郎助は、そこで教わったように、貝殻の粉末や、かなり高価だった石綿を混ぜて、つぎ目を固める実験を重ねました。

切り石にたたきでつぎ目を固めた拡大画像
切り石の水もれを防ぐために「たたき」でつぎ目を固めました。

(注)たたき 赤土や石灰、にがり、貝殻で硬く固めた床材

十内圦の周辺地図、沖之須村、西大渕村(村東)からくる坊主渕川から西大渕村(本村)にかけてある十内圦(地下水路)。西大谷川を越えた地下水路により良田に生まれ変わった100ヘクタールの耕地、今沢新田がある。
十内圦説明図

文責 鈴木誠作(掛川市西大渕)

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