一豊、武功にてはじめて400石を賜る

2017年10月6日更新

岩倉城落城後、一豊は長きに渡り、家族と共に諸国を放浪する辛い時期を過ごす。漂泊流転の一豊の前途に一筋の光が見えたのは1567年、信長が美濃国の斎藤氏を撃破し、美濃稲葉山城に居城を移したときからである。
当時、一豊は牧村城主牧村兵部政倫(まきむらひょうぶまさとも)の元に身を寄せていたが、政倫は「美濃三人衆」の一人稲葉一鉄の一族だったため、信長が美濃に居城を移すと、一鉄とともに信長に臣事したのである。
この頃より、一豊は信長の臣下であった木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、織田軍の一員として多くの戦場に従軍する。

1573年(1570年という説もある)、信長の朝倉攻めに従軍した一豊は、越前刀根坂(現在の福井県敦賀市)で朝倉軍の猛将で弓の名手として名高い三段崎勘右衛門(みたざきかんえもん)と死闘を展開する。一豊は勘右衛門の放った矢を顔面に受け、左の眼尻下から口中を貫通して奥歯に至る深手を負うが、これに屈せず組みつき、ついに勘右衛門の首級を挙げる。一豊の頬深く食い込んだ鏃(やじり)は、一豊の命により家臣五藤為浄(ごとうためきよ)が草鞋を履いたまま顔面を踏みつけて引き抜いた。

敵の猛将を討ち取る大手柄を上げた一豊は、秀吉から近江唐国(おうみからくに・現在の滋賀県虎姫町)400石を賜り領主となった。一豊の出世街道はここからはじまった。

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