吉岡彌生(よしおかやよい) その4

2011年11月25日更新

女性の社会的地位向上のため

眼鏡をかけた吉岡彌生が顕微鏡をのぞくようす
顕微鏡をのぞく吉岡彌生

彌生は、診療と東京女子医学専門学校の運営で多忙な日々を送っていましたが、その一方でさまざまな婦人団体の要職を務めます。彌生が関わった団体は数え切れないほどありましたが、そこには、「女性の社会的地位を向上させたい」という強い思いがありました。このような社会活動は40代から徐々に増え、60代あたりからは全国的な委員会の委員となって精力的に取り組みます。昭和3年(1928年)には、ホノルルで開かれた第1回汎(はん)太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席し、また昭和12年(1937年)には、女性初の内閣教育審議会の委員に任命されるなど幅広い活躍をみせます。

 

苦難を乗り越えて東京女子医科大学の誕生

学校の運営は順調に進んでいました。そして夫婦の夢は、専門学校から医科大学の昇格へと向かいます。そのやさき、これまで彌生の最大の理解者として二人三脚で歩んできた夫の荒太が亡くなります。また、関東大震災や第二次世界大戦で、学校は大打撃を受けますが、そのたびに家族や教え子たちが一丸となって困難を乗り越え、昭和27年(1952年)、念願だった「東京女子医科大学」として新たなスタートを切ります。彌生は、81歳で学頭に就任。それから7年後、世田谷の自宅で教え子に見守られながら88歳で息を引き取りました。

現在の東京女子医科大学周辺の航空写真
現在の東京女子医科大学(東京都新宿区)

大正11年(1922年)

夫 荒太没(54歳)

昭和3年(1928年)

第1回汎太平洋婦人会議に出席

昭和27年(1952年)

新制東京女子医科大学発足、学頭に就任

昭和34年(1959年)

彌生没(88歳)

キュリー夫人と共に医学貢献者として展示紹介

平成10年(1998年)、アメリカのミネソタ州にある名門医療施設「メイヨークリニック」で、医学に貢献した女性たちを紹介する展示が行われました。放射線科学者でノーベル賞を受賞したキュリー夫人や、世界最初の女性医師、エリザベス・ブラックウェルなど、世界中から選ばれたおよそ10人の名だたる女性の中に、吉岡彌生の名前がありました。女性の医学教育に貢献したことが、世界で認められたのです。
土方の地から東京、そして世界へ、どんな困難をも乗り越えて自分の夢を貫き、医師として教育者として、女性の医学教育と女性の社会的地位向上に捧げた生涯でした。

メイヨークリニック特別展より

吉岡彌生の写真
吉岡彌生

放射線科学者マリ・キュリーの写真
放射線科学者
マリ・キュリー

世界最初の女性医師 エリザベス・ブラックウェルの写真
世界最初の女性医師
エリザベス・ブラックウェル

 

右から左に書かれた、「至誠一貫」の書
至誠一貫
彌生は、「相手の立場に立ち、真心をもって一生を生きていく」ことを生涯を通じて心がけていました。

編集 吉岡彌生記念館、 写真 東京女子医科大学所蔵

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