一豊と千代が生きた時代

2011年10月31日更新

山内一豊と千代が生きた時代を、掛川や日本の歴史とともに振り返ります。

掛川・日本の出来事掛川・日本の出来事
1467 応仁の乱。戦国時代の本格的な幕開け。
1476駿河の守護大名今川義忠が、遠江(現在の掛川市を含む地域)支配の拠点として、朝比奈氏に掛川古城を作らせる。
義忠が敗軍の残党に討たれる。
1497今川氏親(義忠の子)と北条早雲が遠江に攻め込み、遠江を支配する。以後、今川氏の掛川支配が約70年続く。
(注1参照)「今川家が遠江を支配、戦国大名へ」(1497)
1513朝比奈氏、古城の南西500メートルほどの竜頭山に掛川新城を築く。
1545一豊、尾張黒田の城主、山内但馬守盛豊の次男として誕生(異説あり)。
1554この頃から秀吉が信長に仕える。
氏親の子、今川義元が駿河、遠江、三河の三国を支配する戦国大名となる。
1557千代誕生?
1559織田信長により岩倉城が落城。一豊は流浪の旅を余儀なくされる。
(注2参照)「岩倉城落城、一豊一家は流浪の旅へ」(1559)
1560桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれる。以後、今川家は急激に弱体化する。
1567一豊、この頃から秀吉に仕える。
1568徳川家康と武田信玄が同盟を結び、今川家を攻撃する。追われた今川氏真(義元の子)は掛川城に逃げ込むが、家康は掛川城を包囲し、半年に渡る激しい攻防を展開する。
一方、武田軍は駿府城を落城させる。
(注3参照)「家康が遠江に侵攻、今川家は滅亡」(1568から1569)
1569信玄が遠江侵攻の気配を示したため、家康は長陣を避け氏真を和議を結び、氏真は掛川城を開城。以後徳川・武田の抗争が表面化する。以降、家康の掛川支配が22年続く。
1571信玄が徳川方の高天神城と一戦交えるも、堅固な高天神城を落とすまでには至らず。この頃に一豊と千代が結婚。
1572家康が三方原の戦いで信玄に破れる。
1573信玄没。信玄の子、勝頼が武田家を継ぐ。
織田信長が将軍足利義昭を都から追放し、室町幕府を滅ぼす。
一豊、信長の朝倉攻めに従軍。朝倉家の豪士・三段崎勘右衛門の弓矢に顔面を射抜かれながらも、勘右衛門の首級を挙げる。この戦功により、近江唐国(現在の滋賀県北部)に400石を与えられる。(異説あり)
(注4参照)「一豊、武功にてはじめて400石を賜る」
1574武田勝頼が高天神城を攻め、落城させる。
(注5参照)「武田勝頼、高天神城を落城」(1574)
秀吉が長浜城を築城。長浜城築城に参加。家臣らの夜食を調達するため、千代が長い黒髪を切って売り、一豊の面目を保つ。
1575長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗。以後、武田家は急速に弱体化する。一豊、長篠の戦いに参戦。
1577一豊、播磨に出陣した秀吉に従軍。戦功により播磨有年(うね・現在の兵庫県赤穂市)に700石を与えられる。後200石加増。
1578家康が高天神城奪還のため、横須賀城築城を大須賀康高に命じる。また周囲に砦を作り、高天神城を包囲する。
1580家康が横須賀城に総勢1万1千の大軍を構える。1千人の軍勢の高天神城は武田軍に援軍派遣を申し出るもの、武田軍に援軍を送る余裕はなかった。一豊と千代の間に与祢姫誕生。
1581高天神城が徳川軍に対し総攻撃に出るものの、玉砕。家康が高天神城を奪回し、以後、遠江全域が家康の勢力圏となる。
(注6参照)「家康、高天神城を奪回 武田家は滅亡へ」(1581)
信長が武将たちを集めての馬揃えを開催。一豊は千代の持っていた黄金十両(現在の価値で推計1,200万円)で名馬を購入して馬揃えに参加し、これが信長の目にとまる
(注7参照)「一豊、千代の黄金十両で名馬を買う」(1581)
1582織田軍他の攻撃により武田家が滅びる。
信長が武田家を滅ぼした後、小夜の中山で休み、日坂に出る。
本能寺の変。信長が本能寺で明智光秀に急襲を受け、自害。
秀吉が山崎の戦で光秀を破る。 一豊、山崎の戦に参戦。
一豊、山崎の戦に参戦。
後、中国路転戦の功により500石を加増。
1583秀吉が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家に大勝。
秀吉が大坂城を築城。
一豊、賤ヶ岳の戦いに参戦。戦功により361石を加増。
1584小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が対決。
後、和睦。
近江長浜5,000石へ転封。
小牧・長久手の戦いに参加。
1585秀吉、関白に就任。一豊、若狭高浜に19,800石を与えられる。
後、近江長浜2万石を与えられ、秀吉が築城した長浜城の城主となる。
1586秀吉、太政大臣となり豊臣姓を名乗る。
家康、秀吉に服従。
1590秀吉が小田原城を攻め、北條氏を滅亡させる。事実上の天下統一を果たす。
戦の論功行賞で家康に北條氏の関東8州が与えられ、家康は遠江など5カ国を手放し、関東へ移る。
(注8参照)「秀吉が天下を統一、掛川城に一豊が入場」(1590)
小田原攻めの戦功として掛川5万石を与えられ、掛川城主として入城する。
(注8参照)「秀吉が天下を統一、掛川城に一豊が入場」(1590)
1591秀次が関白に、秀吉は太閤になる。一豊、今川・徳川時代に作られた掛川城を、近世城郭へと大規模に修復し、天守閣を建立。また城下町も整備し、現在の掛川の基盤を作る。
(注9参照)「一豊、掛川城および城下町を整備する」(1590から1600)
1592文禄の役(第1次朝鮮出兵)。
1593秀吉の子、秀頼が誕生。
この頃から秀吉と秀次の関係が悪化。
一豊、掛川領内で秀次を饗応。
1594一豊、秀次の件で秀吉の逆鱗に触れ、朝鮮出兵を命じられるが、後に許される。
1,000石を加増。
江戸へ戻る家康を掛川で饗応。この頃より家康と一豊の関係が強まる。
1595秀次が自刃に追い込まれる。秀次の自刃により、秀次の持分8,000石を加増。
1598秀吉没
1600関ヶ原の戦い。家康率いる東軍が石田光成率いる西軍を下す。
(注10参照)「関ヶ原で家康が勝利、一豊は土佐20万石へ」(1600)
一豊、家康を小夜の中山にて昼食の接待。
千代からの「笠の緒の密書」を封を切らず差し出す。
「小山評定」にて、出兵時には掛川城を明け渡し兵糧を提供すると申し出る。
一豊、関ヶ原の戦いに参加。
関ヶ原の戦功で土佐一国20万石の領主となる。
(注10参照)「関ヶ原で家康が勝利、一豊は土佐20万石へ」(1600)
1601一豊、土佐に入城。
1603家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
1605家康、将軍職を秀忠に譲り、自らは駿府城に隠居する。一豊没。享年61歳(異説あり)。
1606千代、京都へ移る。
1615大坂夏の陣。秀頼自刃し、豊臣家滅亡。
1616家康没。
1617千代没。享年61歳(異説あり)。

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